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【小説】スポットライト(仮) ※執筆中

第7章|我武者羅

あれから何事もなく中学を卒業した俺は、推薦入試で合格した神ベ市立の工業高校に進学した。

選択した学科は、電気情報工学科。他には機械工学科・都市工学科・科学工学科が存在した。父の大工という職業には憧れをもっていたが、俗にいう土木科「都市工学科」には見向きもしていなかった。理由は入試の小論文にもぎっしりと書いていて、かなり明確にあった。

兵ゴ県独自の取組みとして昔から実施されている「ヤルやるウィーク」がキッカケである。業種は限られているものの、通学圏内にある参加企業の中から1社を生徒が選択し、6月の5日間を連続して職業体験するイベントだ。

星夜は「地域密着型の電気商店」を選択し、新設店舗の電気工事の簡単なお手伝いをしたり、電柱のライトを交換する作業員のハシゴを抑えたり、お客さまの家庭訪問に付き添ったりした。

すごく単純で簡単な理由だが
この電気商店に、強く憧れたのだ。

つまり第3章の最後で記した
「なぜそこで学び始めたのか」
これを本人が心底納得していた。

そして、無意識に集めていたバラバラのピースが、いくつかぴたっとハマる瞬間が訪れた。

あれは高校1年生、1学期中間テストから数日のこと。高校での初めてのテストということもあり、勉強に奮闘した俺には手応えがあった。実際、順次返還されてくるテストの点数をクラス内で比較しても、ほとんどの教科で負けがなかった。というか、11科目中の3つが100点だった。

割り出した平均点が91だった俺は「学科120人中、上位10人に入れるかもしれない」そんな淡い期待を抱いていた。

後日、横に細長い小さな用紙が全クラスに配布された。本人が獲得した各教科の点数、各教科の平均点、テストの合計点数や平均点、見ていてニヤケが止まらなかった。100点という数字を、いったい何度見返しかことか。性教育を除けば、人生でこんな点数を取ったのは初めてだし、他の科目も平均点を大きく上回っていた。

俺は用紙の1番右下を隠していた手をどけて、記された順位に目をやった。

この時の記憶は鮮明に残っている。

1 / 120

「ん?」

「え?」

「あ?」

「すぅぅ…」

「は?」

簡単すぎるその数式を俺はすぐに理解できなかった。宝くじで1等を当てたことはないが、それに近い反応をしていたと思う。それほど衝撃的だった。浮かれ気味で帰宅した俺は「塾に通わせてくれたお陰だ!」と母に感謝を伝えた。

結果発表から間もなく、生徒全員が対象の三者面談が実施され始めた。

順番がまわってきた母と俺は、担任の「芽生/Gai」先生から主に就職に関する話をされた。高校1年の夏ということもあり、時期尚早すぎる話だと初めは思ったが、俺はすぐにその内容に釘付けになった。かなりの大企業に入社できる可能性を示唆されたのだ。

日本三大財閥のひとつであるチュミチョモ系の会社をはじめとし、大手自動車メーカーの数々、広大なエリアの電力事情を管轄する天下の万歳電力、独特なCMでお馴染みのセヤネン電気保安協会、他にも高校1年生でも知っているような有名企業がずらずら挙がった。

俺はこの時、直感で万歳電力に就職しようと決意し、母と芽生先生にその旨を伝えた。

万歳地方出身ではない芽生先生は、俺の目をしっかりと見つめて軽く微笑み、ゆったりとした標準語で「成績1位を続けたら、余裕ですよ」こう言ってくれた。「あんたホンマ頑張りやぁ?!」という母の万歳弁120%の反応はさておき、俺は芽生先生の発言に武者震いした。芽生先生についていくと、決めた瞬間でもあった。

芽生先生は、教室から遠く離れた電気実験室でよく補講を開いていた。成績不良者へ向けての補習ではなく、国家資格の取得を主な目的とする能動的な場だった。俺はこの補講の存在に、高校1年生の2学期に気付いた。それ以降、どうしても外せない予定がある日を除き、すべての補講に参加した。

一方、俺は入学当初から
硬式テニス部にも所属していた。

補講の頻度は時期にもよったが、多い時は週に3回練習を休むこともあった。休む理由はできるだけ、顧問の「脇傍/Wakiwaki」先生に直接伝えに行っていた。その度「勉強は大事やからな!」と快諾されたが、その時のニカっとした作り笑顔の気持ち悪さは印象的だった。

「コイツまた休むんけっ!」

大人に対して敏感になっていた俺は、そんなテレパシーを勝手に受け取りながらも休み続けた。校内ランキング戦での最終順位は同学年33人中で7番手だった。結果として団体戦のレギュラーには1度も入らなかったが、そのギリギリのラインにいた俺の存在は気に食わなかっただろう。これも、勝手な思い込みである。

そして勉強の方でも
よくない思い込みがあった。

「俺はこの学科でNo.1や!」

人生で初めての嬉しいできごとで有頂天になっていた俺は、高校2度目のテスト、1学期の期末テストに臨んだ。結果は平均89点で3/120。血の気が引いて思考が停止した。

「万歳電力に、就職できない・・・」

我に返って将来に絶望した。ハッキリ言ってしまえば、俺は全員をバカにしていた。「中学からちゃんと勉強しておけば、もっと良い学校に入れてんだよ俺は」くらいには思っていたし、テストで負けるはずないと心底思い込んでいたからだ。たった一度の成功で人は簡単に狂ってしまう、そのことを俺はこの時に学んだ。

それからというもの
俺は真面目に勉学に勤んだ。

学科No.1という思い込みを、行動と結果の伴った事実に昇華させようとした。テスト直前の勉強しか意識しなかった1学期とは違い、2学期以降は「予習と復習」の文化を取り入れた。すると、授業の理解度が明らかに変化し、テスト前夜の追い込みのストレスも減った。中学の頃では考えられなかった行動だ。

成果はすぐに出た。


2学期中間テスト → 平均93点 1/120
俺は1位に返り咲いた。

しかし、浅はかで分かりやすい俺はまた油断した。次の2学期末テストでの結果は7/120だった。100点なんてひとつもなかった。この頃の俺は、絶望の大きさに開き直っていて「あぁなんか体調悪くてさ」そんな言い訳じみたことを言っていた。少し前に学んだことを忘れた所か、タチの悪いプライドモンスターに進化しかけていた。

だが、ここからだ。

モンスターの片鱗は依然として残ったままだったが、1年3学期~3年3学期の計11回のテストでは一切油断しなかった。結果、9回の1位を獲得した。「今回はアラタに絶対勝つ!」と毎回宣言してくるS君、まったく話したことないミステリアスなM君、俺は毎回この2人と競っていて、1位を逃した残りの2回の順位は、2位と3位だった。

1年生の3位と7位という結果には負の感情がつきまとったが、この2位と3位にそれはなかった。むしろ清々しいくらいだった。前者とは違って全力を出し切った上での結果だったし、この頃のトップ3の平均点は96前後。紙一重の戦いをしていたからだ。もちろん、悔しさはあったけど。

そんな俺は、高校卒業間際にちょっとした栄誉を授かった。それは、電気情報工学科と他の3科を合わせた約400名中からひとりに贈られるもの。授業態度・テストの結果・学校での素行など、総合的に最も生徒の模範となる者に贈られるものだった。

正直とても嬉しかった。

と同時に、あることがよぎった。

「これは芽生先生のおチカラ?」

というのも芽生先生は、教職員になる前は防衛関係の仕事をしていたようで、とある武術も極めているようだった。そのせいか職員室では異彩を放っていたし、年齢以上になんだか発言権があるようにも感じていた。俺はそんな芽生先生の補講に通い詰めていたのだ。まさか、そんなことはないと願いたい限りだ。

こうして俺は芽生先生の言いつけ通り
いや、9割型?1位を取り続けた。

一生食いっぱぐれない!そう言われる国家資格「第三種電気主任技術者(通称、電験3種)」に合格できなかったこと、この悔いは未だに残ってはいるが、芽生先生の補講のお陰もあって、第2種電気工事士・第1種電気工事士・ITパスポート・危険物取扱者・無線技師… このあたりの国家試験には余裕で合格できた。

「お前の面接の回答はなんか模範的で、おもろないわ!もっと心から話せよ」という、今は意味が分かるけど、当時は意味不明だったアドバイスで俺を悩ませてくれた情熱先生。高校3年生の担任という大事な職務をまっとうしてくれた聖人先生。そして、勝手に恩師として崇め奉っている芽生先生。1年ずつ担任を受け持ってくれた御三方、本当にありがとうございました。

高校1年1学期で不意に訪れた希望

実現すべく瞬時に決意した目標

俺はそれを無事達成した。

俺はとても小さな世界で
何度か栄光と絶望を味わった

他の世界に目を向ければ
どっちも本当にちっぽけだけど

栄光や絶望と表現すること
それ自体ぬるいかもしれないけど

この時に得た経験値は
何ものにも代え難い宝になった。

“井の中の蛙大海を知らず
  されど空の深さを知る”

まさにこの諺(ことわざ)の通り
小さな世界でも、我武者羅に。

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