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Se-yaの生い立ち「就職までの4時代」

目次

4つの時代

私Se-yaが、初めて就職するまでの生い立ちを4つの時代に分けて書き記しております。そこそこボリュームありますので、お時間ある際にごゆっくりとお読み下さい。

生誕〜保育園(父さん母さんゴメン時代)

両親が育った兵庫県神戸市の長田区で、1994年3月2日生を受ける。

この長田区は、1995年1月17日5時46分に発生した阪神淡路大震災の被害を大きく受け、多くの尊い命を失った被災地の一つである。今の私が生きているのは、家の倒壊・家事から命をかけて両親が私を救い出してくれたからだ。

一生感謝し続けないとな(´Д` )

震災で家が崩壊して無くなってしまった私たちは、兵庫県の播磨町に移り変わることに。

移住後は平和な日々が続き、私立の保育園に入園。「英語が話せるようになって欲しい」との思いで入園させたみたいだが、今の私は英語が話せない。笑

正直なところ、英語の授業どころか保育園での記憶はあまりなく…「やぎ先生」とか同級生だった「イチハラ」の名前を覚えているくらいだ。 ←(無いも同然…)

どうやら私には贅沢すぎた様だ(T ^ T)現状、同級生だった人とのつながりも全く無いので、両親には「申し訳ない」としか言いようが無い。

小学生(ヤバすぎる人格形成時代)

小学校は播磨町が運営している学校に入学することに。こちらも保育園同様あまり記憶に無いのが本音だが、各学年の担任の顔・名前は記憶できているはず!たしか…

  • 1年「F先生」
  • 2年「?」
  • 3年「H先生」
  • 4年「?」
  • 5年「K先生」
  • 6年「K先生」

顔は全員思い出せたが、二人ほど名前が出てこない…先生ゴメンナサイ。

そう言えば小学校3年の間だけ柔道を習っていたが、ある程度自分の限界が近づくと嫌気がさしてきて、辞めることに。強くなるために習ったはずが、諦め癖が形成されることに。

そして、小学校4年の時に両親が離婚したことを機に、生活はガラりと変わり「面倒くさいなぁ」「しんどい」と思うことがあればすぐに「ゲーム」に現実逃避する癖が付いてしまうことに。

諦め癖に、現実逃避癖、ただのヤバい奴だ(´Д` )

そのためか特に勉強もせず、ただただ同じ日常を過ごす日々が続いて卒業を迎えた。人格・性格が形成される大事な時期がコレでは親から心配されてただろうなぁ。笑

中学生(史上最高クラスの暗黒時代)

中学校も播磨町の学校に通うが、中学校は比較的記憶に残っている。

  • 1年「F先生」
  • 2年「H先生」
  • 3年「I先生」
  • 部活「T先生、I先生」

先生の名前と顔はハッキリ覚えているし、特に3年の担任と部活の顧問にはよくお世話していただいた記憶がある。卒業してからも何度か顔を見せたことがあったが、今はどこで何してるんだろう( ? _ ? )何にせよ元気でやっていてくれれば嬉しい限りだ。

中学での生活は、家に帰れば決まって「ゲームor外で遊ぶ」。宿題などは頭から順次削除され、小学生で培った現実逃避癖をフルに活用していた。

・現実世界で嫌なことが起きる

・ゲームの世界に逃げる

・ゲームの世界では活躍できる

・ゲームの世界は居心地が良い

・さらにゲームにのめり込む

日常的にゲームをしていた結果、ゲームの世界では簡単に活躍でき、自らが必要とされる場面が多くあったため、上記の様な「負のサイクル」に陥っていた。

負のサイクルに陥った私の成績は中の下(180人中100位くらい)。

ゲームには惜しみなく努力できていたが、勉強となると全く出来ず。テスト前に「ちょっとは勉強しなさい!」と母親に言われ、勉強のフリをしてゲームしていたのは毎度のこと。

部活動の軟式テニスでも、努力をほとんどせず引退。当然まともな成績なんて残っていない。結果、パッション(熱意)持って打ち込める事はゲーム以外に見つからず、中学は卒業。

私は中学で何を学び、何を習得したのか…強いて言えば、ゲームに対する「負けず嫌い」な性格の形成と「惜しまぬ努力」の習慣化。と言った所か。

高校生(黄金テング時代)

高校は、幼馴染に誘われ同行したオープンハイスクールの学校(通称:カギコー)に入学。決め手はこの3つだった。

  1. 学校が新しく空調が完備。(私が6期生)
  2. 都会に出てみたかった。(三宮の隣の駅)
  3. 工業高校。(就職し易い考えた)

暗黒時代を過ごしてきた中学生が高校を決める理由なんてこのレベルです。笑

属した課は電気情報工学科。中学の時に職場体験(トライやるウィーク)した電気工事がキッカケだ。父親が大工をしていたこともあり、電気工事の仕事っぷりがシックリ来ていたのだろう。

学業からは少しでも早く離れたい!と思っていたので「この学校を最終学歴にしたいから、最低限成績は取っておこう」と、なっていた。初めて勉強に意欲を示した瞬間だった。笑

初めてのテスト「1年生1学期中間テスト」を迎えると、電気情報工学科は40人3クラスの計120人だったので、「40位は入れるかな、入りたいな!」くらいの目標で、勉強に取り組んだ。通常の5科目に専門科目を加えるとテスト科目は10強もあったが、ゲームへの惜しみない努力レベルで勉強した。それだけ最終学歴にしたかったのだろう。笑

テストが各授業ごとに返ってくると、スコアは70〜100の間ばかりだった。中学時代平均点数50点ほど、最低点数9点(英語)の私の中では、「やれば出来るやん、オレ!笑」とならざるを得なかった。

クラスの何人かの高得点者同士は互いにスコアを見せ合っていて、私も当然その輪に居たわけだが、クラス内で私は相当上位に居ることが分かった。

そんなこんなでワイワイしながら迎えた順位発表…各生徒に個別の冊子が配られる。中には各科目・全科目における順位・平均点が記載されている。

「まぁ、総合6,7位くらいだったら万々歳!」くらいの気持ちで、ドキドキしながら冊子をめくった。最後まで目を通していくと、なんと!?

電気情報工学科3クラス全120人中…「1位」

この体験が私のテング鼻の形成の始まりだった。

その後のテストでは、何度か1位は取り逃すも半分以上は1位を獲得し、内申平均点は「満点の5」か1科目取り損ねて「4.9」テング鼻の成長は加速し続けた。

私の名前「征樹」は、
・樹木:ひとつの事
・征服:一番になる事
「何かひとつの事で、一番を取りなさい。」と、両親が意味を込めてくれているので、高校その由来を少し実現させてあげれたかなと…笑 ←(就職後、伸びきったテング鼻は見事に折られます。笑)

部活動は「硬式テニス」を選んだが、勉強最優先だったため練習を休むことがしばしば。校内ランキング戦では同級生20数名中6番前後。練習を休んでまで補修授業や資格の勉強をしたおかげで、資格取得や好成績が取れた訳だが、団体戦のレギュラー入りは果たせなかった。 ←(言い訳)

ただテニス自体はとても好きなので、生涯通して出来そうなスポーツに出会えたのは良かったですねd( ̄  ̄)

▲ちなみにただの自慢になりますが、私は学年全体(400名くらい?)で1名のみ選ばれる優良卒業生徒だったようです。そんな事もあり好きな求人票を選べる権利で、一番人気「関西電力株式会社」を選択!同級生5名で挑んだ結果…5名全員合格!

今振り返っても、この合格通知がこれまで受けた試験結果の中で一番嬉しかった(T ^ T)そして高校は無事卒業を迎える事に。中学の暗黒時代とは違い、目標に向かった惜しまぬ努力を出来る様になった訳だが、その反面、今でも邪魔だと思う「テング鼻」が形成されてしまったのは痛手だ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました!

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